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プロフィール?

author:来山輝依


建築士にだけは絶対にならないと決めた、建築学科生徒。
好きな人は輝夜。
好きな作家は森見登見彦。
趣味特技は、趣味特技は特になしと答えること。
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2011.11.03 Thursday

一定期間更新がないため広告を表示しています

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定期更新第千六百四十番
2009.11.28 Saturday 02:16
 自分を知ることというのはまあ人間たるためには非常に大事なものだ。
自分を把握できれば然るべき所で自信を持てるし、
自分という人間を知れれば、そこを基準にして他人を知れるし。
ある程度高次元の自己実現のためにはまず必要不可欠。

自分を知りたい、という欲求は、時には目的として表出してこない、
というか、
根本的動機が自分を知りたい、ということである、ということを人は理解せずに
それを意味不明の衝動として感じることがある。
自省が不十分な人の場合。
自分に何らかの能力、価値をエンチャントし、
それによって自分を定義づけ、一周して知ったということにする。

厨二病なんて最たるものだ。
妄想の世界で自分に能力をエンチャントし、自分の価値を定義づける。
もしくは占いなんてのもそう。
一見権威のある占い師に何らかの性質をエンチャントしてもらえれば、
自分で納得できる内容である限り、それは自分の価値として定義づけられ、
結果的に自分を知ることになり、自信につながる。

自信が人生を良くするというのは俺の根本原理。


(と、ここは別に本題ではない。
というかどうでもいい話。)


さて、果たして俺の場合はとにかく文章を書いて頭の中を整理する、
というのが自分を知ることの主たる手段である。
要するにブログである。ここである。
自己解析の結果の集積がこのブログであると言っても過言ではあるけれど、
このブログの目的の一つが自己解析の促進であるというのは事実。

まあ言葉遊びはここらへんにして。

何故自分は人と積極的にかかわろうとしないのか、という理由を考えてみた。
ニートが何故働くべきではないか、を説くようで非常に苦々しいので、
冗長な前書きでお茶を濁したのであるけれど。
えー、よくよく考えたところ、

自分が特定の個人と積極的に付き合おうとした、という事実を作りたくない。

のかなあ、とか。
別に俺は皆様が思うほど人付き合いは嫌いじゃあない。
むしろ人と話すのは人並みに好きだし、
場の流れを読む事だけに関してはそこいらの人間と一線を画していると自負している。
その上でなんで人と付き合おうとしないのか。
やっぱり自分の自分に対するプライド、なのかなぁ・・とか。思う。

自分が特定の個人と付き合おうとしている、
というのが一つの弱点に感じてしまうのかもしれない。
もちろん頭じゃあそんな馬鹿な事、とは分かっているけれども、
問題は自分の中でのプライドの自己完結のさせ方であり、
そこに関して譲れない、というのが厨二病の痛いところであるからにして。


まあ、正直この問題は考えてもよくわからないので、
曖昧なところで切り上げよう。

文体もめちゃくちゃになってるし。
悪い意味で言葉遊びしすぎ。
わしはこんな文、書きとうなかった。
| vlack_jack | 戯言 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
戯言
2009.11.22 Sunday 02:19
●青春

 なんか青春という言葉を数年ぶりに聞いたんだけれども、もとい読んだんだけれども。
なんというかいつのまにか終わってたなとしか言いようがないぜ。
もう二十歳なんだぜ。

え、青春 ですよ。皆さん。
もう自分の生き方決めてしまえば全く縁のない代物。
勝手にしてくださいと言いつつも楽しそうではある。
都市伝説にひとくくれれば文句なし。
みたいな。

要するに、おれは自分の生き方は好きだし
自主的に自分の生き方を選択したのだけれども、
同時に捨てた生き方があるんだな、みたいなことを、
青春 という文字を久しぶりに見てはっと思ったわけです。

その最たるものが青春 なわけですね。

人生ってものはぜひとも何度かやってみたいものだ。



●ナルシスト

昨今私の頭を悩ませている問題があり、それは即ち
この俺はナルシストであるのか?
という話である。

全くもってナルシスト結構ではあるのだが、
一般的に言われているナルシストと同列に並べられるのもまた心外であるので、
如何したものかと自分の性質について考えを巡らせた結果、

ナルシストなのか、と問われたら、
いいえ、僕は自信過剰家です。
と答えることにした。

よくよく考えたら別に自分の能力に酔ったことはそれほどないからだ。
俺が愛しているのは自分の存在であり、もしくは生きていること自体。
自分の能力というものに対しては、愛するというよりも信頼を置いているというだけだ。

自信の能力に酔い、愛する、といった類の人種とは根本的に違うと思うのだがどうなんだろう。

あまり説得力がないことは承知している上に、
広義のナルシストという立て札を持ってこられたらしょうもないのであるが。

まあただ、このブログというものが好きなのは、これは確かだ。
故にこのブログから俺という存在を切り取ったら、ナルシストという結論に至るんだろうな。
ここでは本当にやりたい放題やっているという自信があるので。

まあ要するにぐだぐだにして結論付けるのを避けたいのではあるが、
繊細なニュアンスの分かる人には俺の言いたいこともきっと伝わったはずである。

故に俺は、ただの自信過剰家である。
| vlack_jack | 戯言 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |
戯言
2009.11.09 Monday 21:20
 お久しぶりです戯言担当です。


●優しい人は好きですか

皆さん優しい人って好きですか?
好きなんでしょうか。
どうしてもわからない。
優しいことのどこが良いのだろう。
正直見ていて気持ちが悪い。
特に男が女に優しい時は。

対して気配りができること、これは素晴らしいことだと思う。
思いやりをもって人と接せることは大事な能力だし、
これなくして人と本当の意味で仲良くはやっていけないだろう。

思うに、優しい と 思いやりがある ってのは、世間では混同されてしまってるんじゃないだろうか。
思いやりがあることが優しさに含まれてしまっているんじゃないだろうか。
よくよく考えてみると全くもって性質が違う両者。

ずばり言ってしまえば、
優しさ は、   人が喜ぶのを見て嬉しくなる という性癖 (であることが多い)
思いやり は、 人が不快な思いをしないように配慮をするマナー

属性からして違ってる。


さて、この話で何がしたいのかといえば、要するにこの分断された前者、
優しさ というものが非常に疎ましく思えてきたので糾弾したいという話で。

ほとんどの優しさっていうのは、利己的なものだと思う。
即物的にいえば相手が得するような行為をするわけなのだけれども、
その実、自分が優しいことをした、という自己満足を得るためのものであることが多い気がする。
更に悪くば即物的な利を得るための手段にもなりうるし。
少なくとも女どもが言う「優しい男の人が好き」はひたすらまとめて全部この類だろう。

もはや同情の延長ですらなく、自己満足自己肯定のきっかけとしての優しさ、
要するに優しいことをしている自分には価値がある、という実感、そのための手段。
優しさっていうものにこういう匂いが嗅げてしまって、これ実に気持ちが悪い。

もちろん、もちろんのこと、純粋なる献身、博愛から来る優しさ、というものも存在することは認めよう。
ただしそんな優しさ、要するに思いやりの上に成り立つ真の優しさ、
こんなものは滅多に持てるものじゃあない。
純粋に人にやさしくしたいのならば完全に確固とした自己を持つ必要があるからだ。
自分が中途半端な人間の優しさなんて、前述した自己満足か、もしくは自暴自棄でしかありえない。



そして俺の知る限り、

優しいと思われる人間で、

確固とした自己を持つ人間は、

いない。



それ故に、優しい人間は嫌いだ。
| vlack_jack | 戯言 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |
戯言
2009.06.07 Sunday 16:58

●これが今僕がすべきこと

なになにと、どこに問題があるのかと色々考えていたんだが、それは大学にあるというより文系就職という制度自体に問題があるのかもしれないと思ったのかもしれない。

これの存在が大学生のやるべきことをあやふやにしいてるのでは。

というのもですね、文系就職枠の採用側が求めている人間って、はたして大学を出たかどうかに何か関係があるのだろうかという話でして。

例えば医者の採用枠だったら、大学を出たかどうかは重要どころか最低条件であって。
つまり、学生は医学を大学で学んでいなきゃ話にならない。
故に大学という機関は、病院の採用側から見ると、
病院に雇われるために、医学を学ぶ機関
という一面を持つことになるわけです。

同様に研究者だったら採用は、大学院を出て、どれだけ素晴らしい論文を書けたかにかかっているのだろうから、
その面から切り取ると、
研究者になるために必死に学問をする機関
という機関になるわけです。大学は。

非常にわかりやすい

ところが、文系就職枠の採用者側から大学の意義を見てみると、全くあやふやなんですね。
文系就職枠の採用者側が見るのは、恐らくその人の頭の回転の速さ、人間性、発想、まあ書き連ねるとキリがないけど、そこら辺だと思うんです。
微分方程式が解けるかどうかとか、近代アジアの歴史を語れるかとか、そういうものじゃあない。
恐ろしいほど数学ができる人間でも、壁と話をする人間は絶対雇いませんよね。企業は。
文系就職者にとって、大学の必修科目ができるかなんてのは全くもって意味ナシ。

そうすると、文系就職の面から切り取ると、大学というのは何をするべき機関かというのが全く分からないんです。
強いて言えば大学は、
社会に出るための人間性を磨く機関 
だったり、さらに悪ければ
企業が変な人間を雇わないためのレッテル
でしかないわけで、大学自体に本質的意味がないんですよね。
文系就職にとっては。実にあやふや。
採用者側から見た大学の意義がそうであれば、もちろん文系就職を目指す大学生のやるべきこともあやふやになるわけで、そうすると大学って何のために行くの?という話になるわけです。

東大なんて行かなくてもEQが高かったり、発想が豊かだったり、そういう人間はゴマンといるはずですからね。
むしろ大学で微分方程式を学ぶことは徒労、良くてトリビアにしかなりえない。
しかも長くて3年で忘れるという折り紙つきの。


さて、こうなってくると、我々は大学で何をすればいいかわからなくなるわけです。
大学はまあ教授たちが運営する組織ですから、「数学は必修科目だ!」とは言ってくるわけですが、
われわれにとってはそれはトリビアでしかないわけですから。
教授たちのように大学を研究機関として捉えるのでなければ、数学は全くの徒労というわけでして。

となるとオマエ大学くる意味ねえジャン帰れよってなるけども。
実にその通りで。
上の議論から、文系就職希望者にとっては大学に行くことは本質的意味はないんですよ。
大学行ってないと良い企業入れないという点しか大学には意味がなくて、
結局大学は4年間で買う社会人免許でしかないわけです。

まあ望ましくはないとは思うのだけれども、それは文系就職という存在のせいでして、
更には企業にとってもそうせざるを得ないしきたり、のせいであって、
まあ生徒も大学も企業も悪くはないわけで、
結局はこの教育システムの内包的矛盾なわけであって。

大学が文系就職希望者にとって本質的に無意味であることはもはやあきらめるしかない話だと思うんですね。

まあこのままだとまったくネガティブな議論でしかないので、
最終的に、その前提の上で我々の大学生活の意義をもう一度考えてみたいと思います。
我々にとっては大学には意義がないわけだから、そうすると自動的に、
大学生活の意義は大学自体に求めるのではなく、自らの内に求めるモノ、ということになるんですよね。
これは高校までの我々の学校に対する意識から考えると、まさに革命的転換となり、それはつまり、
開き直って、4年間を社会人になるための自発的準備期間として捉えなおすということなんです。

たとえば自分のやりたいことを心おきなくやっておくことだったり、社会人としての自覚を磨くための時間とするんだったり、世界を見て回るんだったり。もちろん研究者になるんだったら、その夢のために必死に勉学に励んだり。
もはや大学は、言われたからこれをやる、という意識でいるべき場所ではないんですよ。
完全に開き直りですけど。
ですけども、自信があります。
医師への道だったり、研究者への道だったり、文系就職だったり、
自分の辿りたい道から逆算して、そのために積極的に、自由に時間を使う期間。
それが、大学という機関の一般的意義になるんだなと。


エスカレーターからの自覚的脱却、
社会への積極的態度の獲得。
誰も教えてくれなかったけれども。
誰も教えてくれないけれども。
3年目にしてやっと自力で見つけられました。

まだまだ抽象的だけれども、


これが今僕がすべきことだ。


大学生活2年半残してそれに気付けたのは素晴らしきわが人生にとって素晴らしきプラスであるということを記し、このエントリーを終わりにしたいと思います。

| vlack_jack | 戯言 | comments(0) | trackbacks(1) | pookmark |
戯言
2009.05.31 Sunday 15:27
 ●いい子の価値

いい子好きですか?皆さん。
ぼくはですね、大嫌いなんですね。
いい子は先生がいないところで黒いからとかそういうアホらしい理由じゃなく、
純粋にいい子はダメだと思います。
僕は絶対に自分の子供はいい子にしません。

何基準でそんなことを言っているのかといえば、まあ、良い大人になるためのルートとして、
いい子の道を通るのは良いのか悪いのかという観点なんですねこれ。
自分の考えではいい子と良い大人は直線状にないというか、全く別概念なんですよ。と思うんですよ。

こんな風呂敷を広げると、いい子と良い大人の定義からし始めなきゃいけないのでそこから。
いい子というのは、子供の道徳を順守する子供。
良い大人というのは、一般的な道徳を悟った大人。
とでもしておきましょう。
まあ順当じゃないですかね。

えーと、子供の道徳と一般的な道徳の違いってのは、
前者は、一般的に大人が望むいい子ですね。
友達に優しく、親や先生に逆らわず、言われた仕事をきちんとこなす子供。
まあいい子ですよね。
後者は、様々な視点、立場から物事を考えられ、単純な感情を超えた所で他人に共感できる人間。
という感じでしょうか。

さてまあ、教育の最終目標は良い大人を作ることだ、と勝手に定義した上で、
いい子であることは良い大人につながるのかということを考えてみましょう。
みますと、
明らかにそんなことはないんですよね。
というかむしろいい子であることは良い大人になるための足枷にすらなり得る。

というのも、子供の道徳と一般的な道徳は、その根本が全く違うんですよ。
一般的な道徳というのは、状況に対する観察、思考、次に理解、そして共感。
これらの姿勢の先にあるもので、単純なルール遵守なんかとは全く違った根拠を持つんですよ。
これは、状況に対する積極的関わり合いの末に導きだす、合理的、人間的結論の集合であるわけで。
つまり一般的な道徳は、思考の末に導き出されるものじゃなきゃいけないんですよ。

に対して子供の道徳はルールを順守することで、うまく物事を収められる、という経験からくる道徳。
親が褒めてくれたから、教科書に書いてあったから、先生に怒られたから。
これをしない、これをする。
根拠は自分の中にはなく、周囲の状況にあるんですよ。
つまるところ、その道徳には何ら積極的根拠がないわけで、、
物事をある一面でしか切り取っていないわけです。一種の思考停止なわけですね。

ということで、子供の道徳は、一般的な道徳にはまず直結しないんです。
それどころかむしろ、出所をたどると、全く相反する道徳なわけで。

良い大人を作りたいなら、学校ではいい子を作る教育はしちゃいけないと思うんですね。

子供の道徳を順守させすぎると、
思考停止の道徳でうまくいく、と子供が勘違いしてしまう恐れすらあるから。
そのまま子供時代にずっと思考停止してれば、一般的な道徳には至れませんよ。

であっても、学校という世界ではその思考停止をできた子供の方がいい子として扱われる。
この理由は、先生にとって都合がいいからというものもあるけれど、それ以前に恐らく、

子供の道徳と一般的道徳の性質の違いを理解している人間が少ない。

というのが大きな要素としてあるんだと思う。
これ読んでる人にも、漠然と、いい子は良い大人に直結するとか考えてる人多いんじゃないですか?
僕に言わせると絶対にそんなことはないんですよ。
ですよ。ですが、行動の結果のみを見ると、
「人に優しくする」
「しごとをきちんとこなす」
なんてところは子供の道徳も一般的な道徳も同じわけで、だからみんな、この二つを混同してしまうんでしょうね。

ということで、とにかく僕が言いたかったのは、
いい子として育てることは、最終的に、もしくは大人になった時を考えるなら、
何の意味もない。それどころか、マイナスにも働きうる。ということであって。
まあ、大人的に見て、『わるい子』に育てましょうってことですね!

元わるい子の戯言でした。
| vlack_jack | 戯言 | comments(0) | trackbacks(1) | pookmark |
医療
2009.05.19 Tuesday 19:40
●高度医療

家柄上、医療について考えることは多い。
まあ今話題の移植について考えたんだが。
とりあえず生命倫理がどうのこうのという議論をするにはちょっと知識が少なすぎるけれども、
純粋にこのことに対する感想を述べさえてもらうと、
そんな高度な医療をするならもっと他の所に金を割くべきでは。
ということ。
巷での議論とは全く別の切り口ですが。
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戯言
2009.04.25 Saturday 03:40
●なにか君に対する考察

例えば、誰かの横顔、寝顔を見つめていても、実にそれだけの観察であって。
特筆すべきことはない。
しかし、それが転じて目が合うという状態になるとどうなるのか。
その瞬間に、1対1の間に、なにかが生じるわけだ。
それは、相手に対し言葉をかけなければいけない義務だったり、
微笑みかけずにはいられない焦燥だったり、
目をそらしたくなる欲求だったりするわけだが。
この「なにか」が、総合して何なのか。一般的にどういう意味を持つモノなのか。
考えても考えても意味がわからない。

「相手と認知しあったことを自覚したとき、人間には気まずさを覚えるシステムがある」
と言ってしまえば、確かにそれも道理ではあるのだが、
この、なにか、は、単純な気まずさ以上の意味を一般的に持っているような気がしてならない。
| vlack_jack | 戯言 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
戯言
2009.04.23 Thursday 01:47
●因果の逆転

さて、運命の出会いというものが存在するか否か・・
ということを論ずるのを生きているうちでたぶん一度は見たことあるような気もするけれども。
こんなものを論じるのは全く持ってナンセンスであって。
運命の出会いというのは明らかに存在している。

なぜなら、運命の出会いと定義づけられうる出会いが過去にこの世の中に存在し得たから、そういう概念が作られた、から。
まあ、「運命の出会い」というのを持ち出したのは一つの例であって、
つまり、過程と結果が逆転している事例の一つなわけだ。
運命の出会いって本当にあるのかなアーハァー??ではなく、
『運命の出会い』というものがあったから、運命の出会いという言葉があるわけ。

まあ、上の例は初見の人の錯覚を使って煙に巻いてるだけのひどい議論だけれど、
つまり過程と結果の逆転について考えてみたいのです。

| vlack_jack | 戯言 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
戯言
2009.03.26 Thursday 01:59
●あたりまえなこと。

きっと当たり前すぎることを言わせてもらう。
愛することって、それ自体は自分のためなんだろうなぁ。
愛されるよりは、きっと愛する方が心は満たされるし、幸せになれる。

故に愛はそれ自体利己的なもののはず。
君のために死ぬ、なんてのがその典型であろうか。
君のためを思えば死ぬなんて選択肢はそもそも除外しなきゃいけないわけで。

綺麗なレッテルを張ることにより、美化された、特定方向への気持ちの高ぶり。
これが愛の根本ではないかと思う。
もちろん、人間には理性だとか、思いやりなんかがあるので、実態としてはもう少し複雑で、優しいものになるんだろうけれど。

けれど、結局、愛することというのはその行為自体が自己満足として完結しうるものではないか。
故に、没我的に愛することにのめりこむこと、これは相手のことを本当に思うのならば必ずしも推賛されるものではないのだろう。


●覚悟

感情に勝つ、唯一の意思がある。
それが、覚悟である。

覚悟は、人の理性の持ちうる、最も美しい意思であろう。
覚悟は悲しみを克服し、快楽を跳ねのけ、恐怖を滅殺する。

様々な場面において、とっさに、如何に強い覚悟を持てるかどうか。
人の器を計る、最も簡単な方法の一つだろう。

また、覚悟は様々な感情や状況を打開する武器であるだけでなく、
人生において、幸福をつかみ取るための最良の道具の一つである。

感情に流されるのが人間とは言え、もしそれに強く反発し、
流されずに強硬に決断を続けていければ、そこにはきっと何らかの形で成果が付いてくるし、
そうでなくとも覚悟の下の結果には、反省はあっても後悔はないからだ。

なんかぐだぐだになってしまったけれども、
とにかく覚悟という意思が、本当に美しく見える今日この頃。
自分もそんなものを帯びられたらいいと思うが。
「殺意を持ちたい」なんて言っているのも、覚悟に惚れた延長なんだろう。
人を殺すための覚悟であっても、それでも覚悟が美しいから。惚れ惚れするから。

人殺しの覚悟なんてどす黒いだけ?
そんな難しすぎる判断は読者の皆様に任せよう。

でもブラックパールっていうのも宝石の一つなんだよね。


●老人

精神的老人が嫌いだ。
全く持って奴らは。

――――
最初に断っておくと、ここでいう老人というのはお年寄りとは別義だ。
自分は、お年寄りには最大限の敬意を払おうと努力している人間なので、
奴らに老人、という名前を付けるのは苦渋の決断ではあったのだが、
脳内会議でさんざん老人老人と呼んできたので、ここでは老人と呼ぶ
――――

幼さとは、無知であり、好奇心であり、向学心であり、向上心であり。
故に激情であり、野望であり、成長である。
成長の先に、人としての覚悟と達観があり、それこそが人を幸せに導く。

自分が嫌うのは、この幼さを持たない、
いやむしろ、それを既に捨てたようにふるまってはばからない連中のことだ。

子供でなくとも、少なくとも少年や青年にとって、
幼さは最も大事にしなければいけない概念のひとつなのだ。
いつの時代でも、幼さとは成長の原動力であるから。

そんな幼さを、簡単に否定する人間。
どうしても嫌悪感が。

いや、子供っぽく振るまえとかそういうのじゃないんだが、
向上心、向成長心をもつことを放棄しているんだよな彼らは。
ドライな人間?みたいな。

ああすまない、悪口みたいになってしまった。

ええと、クールであっても、やる気がなくてもいいのよと。
だけど、心のどこかで、成長につながる幼さを大事においておいてほしい。

達観したり大人ぶりたければは30年後にやればいいんだ。
| vlack_jack | 戯言 | comments(0) | trackbacks(5) | pookmark |
ちくしょう
2009.03.24 Tuesday 00:31
成績開示、明日の朝9時らしいです。
もう寝ようかな。
| vlack_jack | 戯言 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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